« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月

先生

 
 
まだ、ハノイにいる。

今年は、先生の何回忌なのだろうか。

確か、先生はかつて新宿で、ベトナム戦争に反対する運動をしていたらしい。
それから結構な時間が流れて、先生は遠くの人となり、なぜか僕がベトナムにいる。

先生、ベトナムは今、とても平和です。正しく言えば、とても平和に見えます。
先生の知っているベトナムは、ナパーム弾と枯葉剤のベトナムかもしれませんが、今はずいぶんと様子が違うようです。

僕がベトナムで会った何人かは、枯葉剤の被害者でした。
それで身体がうまく動かなくなってしまった女性とか。もし彼女に先生が会ったら、間違いなくあの、目を剥いた憤怒の表情で、涙を流されることだろうなと想像します。

彼女は笑っていました。とても勤勉で、やさしい気遣いをする方です。僕も何回か助けてもらいました。

彼女に先生の話をしようと思いましたが、やめました。
でも、もしも「あの頃」に先生と会えていたなら、
彼女は、こう答えたと思います。

「ありがとう。あなたたちが寒い国で、熱い運動をしている時、わたしたちは、熱い国で、静かに戦っています」

先生。
ベトナムの暑さは湿気に満ちた、土の上でゆっくりうねるような暑さです。
時折少しだけ風が吹いて、一瞬だけその暑さを軽く中空にさらう午後。
そんな時の彼らは、静かな中音域の綾を、その一時だけ、綺麗に揺らせているように見えます。
 
 

 


ホテルオアシス

 
ハノイにいる。

夜。鳴りやまないクラクションたちを窓から見下ろすと、
信号のない道路の向かいに、小さなホテルがあった。

オアシスと書かれた赤い看板、
あちこちにペンキのはがれた跡がある。

目下数十メートルにある、そこのオアシスは、
僕らが泊るホテルのプールよりも低いところにある。

鳴りやまぬクラクションと、
さっきまでのしっとりした高温と、
ジャックフルーツを売るおばさんの
黒い肌、
光る白目。

エアコンが痛いほど効いた部屋。
ノックの音に答えてドアを開けると、
若い女性がニコニコしながら、「おやすみ前のチョコレート」を配っていた。
 
彼女もきっと、就業時間が終われば、
あのクラクションの渦を潜り抜けて、
明かりの少ない、常夜真夏の暗闇に戻るのだろう。
 
「なぁ、おまえら、どこから来たんだよ?」

ホテルオアシスの赤い看板が、
充血した、見上げた視線をこちらに向けながら、
鉄錆色の息で問いかける。

その声も、ぶ厚いガラス窓に遮断されて、
背中にはエアコンの風。

薄型のテレビは韓国LG製で、
僕らは暇さえあれば、NHKを観ている。
 
 


出来事

 
 
知らなかったことを、知った。
それから、
知っていたはずのことを、忘れた。

それから、一度だけ、おじぎをした。
なんとなく、手も合わせてみた。
 
 
 


« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »