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彼女の部屋で、見慣れないものを見た。
リビングにある食器棚の上に置かれた透明なシャーレ。中には薄いピンク色の糊状のものが入っている。ジャムの残りかと思ってシャーレを手に取ろうとしたら、

「さわらないで」

と彼女に一喝された。どうやら食べ残しではないらしい。気になった僕はこれは一体何なのかと聞いてみたけれど、彼女は微妙に話をそらすばかりで一向に教えてくれる気配がない。僕が何となく黙ってしまうと、彼女がちらりと僕の顔色を窺ってから、少し申し訳なさそうに言った。

「別に秘密にしたい訳じゃないんだけど、変に思われたくなくて」

隠している方がよっぽど変に思われるよともう一度聞いてみると、彼女は不安そうな表情でしばらく黙ってから、「変に思わない?」と何度も念を押した。そんなに変わったものなんだろうかと一瞬たじろいだけど、今更引くに引けなくなった僕はわざと何でもなさそうなそぶりを見せながら、今更そんなシャーレがあってもなくても十分あなたは変わっているよと冗談を言った。

「それ、私の体液」

表情は嘘をつけないんだと思い知った。僕の表情が一瞬固まったのを彼女は見過ごさなかった。相当注意して見ていたのだろう。念押しされた手前、僕は驚いたままこの状況を放置しておく訳にはいかなかった。

「何かの検査?」

できるだけ日常的な事柄に落とし込もうとしたけど、彼女は首を横に振って「何て言ったらいんだろう」と説明する言葉を探している。僕は少しだけ聞いたことを後悔していた。黙って放っておけばよかった。

事は、彼女が大手化粧品会社のモニターに応募したことから始まったらしい。あわよくばアルバイトの口となる切っ掛けになればいいと使用感を詳細に綴ったレポートが評価されたらしく、ある日本社に呼ばれた彼女は、化粧品とは別の新製品について説明を受け、言われるがまま被験者となったそうだ。

「それで、体液を部屋に置いている訳なの?」

正確には体液ではないらしい。あのピンク色の糊は彼女の体液にいくつかのタンパク質を混ぜたものらしく、常温で放置しておくと、『その場の雰囲気』を正確に記録するらしい。

「今の会話も記録されているの?」

彼女はまた首を少しかしげて「説明が難しいのよ」とさっきと同じようなことを言った。
どうやらその混合液は印画紙や磁気テープのようなものとは違うらしい。出来事の記録は体液の持ち主自身の頭の中で行われる。脳が日常的にやっている「記憶」だ。つまり記録すること自体は、何の変哲もない日常動作だ。ピンク色の糊を置いておく意味がない。

「だから、その場の雰囲気を記録しているの」

どうやらピンク色の糊は一定の時間が経つと色を失って、それ以上『雰囲気』が記録出来なくなるらしい。しかしそれをそのまま冷凍庫に入れて凍らせると、『雰囲気』だけを半永久的に保存出来るらしい。

「実際に時間を遡る訳じゃないんだけど、感覚的にはそれに近いかも」

凍らせた『雰囲気』は常温で解凍したあと、そのままバリウムのように飲み干すことで作用するそうだ。効果は体液の持ち主本人にしか現れないらしく、数分経てばピンク色の糊に記録された『雰囲気』が脳のどこかを刺激して、眠っていた記憶のうち、雰囲気を記録していた時間帯分の全記憶が脳のワーキングメモリに一時的に復帰するらしいのだ。

「本当に、ちょっとの間だけ『その時』に戻るの。頭の中だけ」

彼女が嘘を言っていないことは表情でわかる。突飛な話だと思ったけど難しいことは分からない。僕は何となく納得した。

「でも、使い道、あるのかな?」

「そりゃあると思うよ。結婚式の素敵な思い出とか、子供の七五三とかね。記念写真みたいにその辺にシャーレを置いとけばいいんだもの」

「飲み干して、『あの時』に一瞬だけ帰ったとしても、その一回だけなんでしょ?何だか空しくなっちゃうんじゃないか?」

「それもそうね。でも、雰囲気が冷凍されているって、それだけでも記念品としては十分すぎる価値があるようにも思うけど」

「それこそ、写真やビデオでいいじゃん」

ピンク色の糊が及ぼす効果の不思議さに驚きつつも何となくそれに抵抗を感じて、僕はありとあらゆる否定要素を持ち出して取るに足らないものだと言い捨てようとしていた。今思えばむきになっていたと思う。

「じゃ、あなたはこれが発売されても買わない。それでいいじゃない」

その話題は彼女の言葉を最後に終わり、僕は雰囲気が悪いままであることに気まずさを感じながら彼女の家を出た。
数日間何となく気まずくて電話もメールも出来なかったけど、根負けしてごめんなさいのメールを送ったら、返事が来た。

「ふたりの時間を記録したかっただけです」

折角の記録を口げんかみたいなもので終わらせてしまった事を僕はずいぶんと後悔して、もう一度ごめんなさいとメールを送った。数分後に「しつこい」と返信があった。

あれから結構な時間が経って、僕らは一緒に暮らしている。おそらく冷凍庫の奥には『あの時の雰囲気』がラップに包まれたまま凍っていると思う。どうせ険悪ムードな記録だと分かっているので、きっと解凍はされないだろう。
そういえば今になっても、あれが商品として流通したという話は、まだ聞こえてこない。
 
 
 
 


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