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まだ気付きたくない

 
 
足下が高野豆腐みたいに感じる。
廊下の床面は固いはずなのに、一歩踏むごとに足下が傾いている気がする。

壁に額をぶつけた。

まっすぐな廊下がうねっている。突き当たりの部屋に着くまでに、これから何回壁に額をぶつけるのだろう。うんざりしていたら誰かに肘を掴まれた。支えになるものなら何でも嬉しい。つい安心して肘を掴んでいる腕に体重をかけると、腕が喋っているような気がした。

「まずいんじゃないですか。これ」
「誰か連れてきた方がいいですよ」

まずいから、今私がこうやって高野豆腐の上を歩いているんじゃないか。連れてくるべき存在は私以外にいないではないか。声が思うように出てこないので横隔膜だけを使って叫ぼうとしたら、吐き気に襲われた。

額をぶつけないように、壁の直前で身体を半回転させる。そのたびに天地がものすごい勢いで捻れる。転倒しているようだ。肘を掴んでいた手のひらが腕に代わり、私の肘を左右からがっちりと固めた。何と心強い。

ドアを開けたら、強い光が何度も点滅していた。光に合わせて、水たまりを長靴で踏み鳴らす音が聞こえる。たくさんの人とたくさんの光源だ。そして、光源の方向には希望があった。

椅子だ。

これは現実なのだろうか?私が一番欲しているものが目の前にある。私は倒れかかるように腰を下ろした。終わった。私はこのパイプ椅子へ座るために高野豆腐の上を歩き、額の鬱血を我慢し続けてきたのだ。何故にマイク?私か?私に残っているのはもう、身体感覚だけなのだが。それでも構わないというなら理解できないこともない。それがここに座り続ける対価というのなら、喜んで喋らせてもらう。で、何を?

何かを言葉にしたことは薄く覚えている。その時はとにかく、椅子に座り続けていられるのが幸せだった。これらの全てが夢などではないことに気が付くのはまだ先のことにしておきたい。

まだ気付きたくない。
 
 
 


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