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2009年2月

 
 
 
拾った氷を放置していたら、ひとまわり大きくなっていた。
きっと氷の中心に、一定の高温があるからこういうことが起きるのだろう。

この氷はもう少し寝かせておこうと思う。台所の隅にでも置いて。
明日になったら、もう少し大きくなるかもしれないし。
 
 
 


まだ気付きたくない

 
 
足下が高野豆腐みたいに感じる。
廊下の床面は固いはずなのに、一歩踏むごとに足下が傾いている気がする。

壁に額をぶつけた。

まっすぐな廊下がうねっている。突き当たりの部屋に着くまでに、これから何回壁に額をぶつけるのだろう。うんざりしていたら誰かに肘を掴まれた。支えになるものなら何でも嬉しい。つい安心して肘を掴んでいる腕に体重をかけると、腕が喋っているような気がした。

「まずいんじゃないですか。これ」
「誰か連れてきた方がいいですよ」

まずいから、今私がこうやって高野豆腐の上を歩いているんじゃないか。連れてくるべき存在は私以外にいないではないか。声が思うように出てこないので横隔膜だけを使って叫ぼうとしたら、吐き気に襲われた。

額をぶつけないように、壁の直前で身体を半回転させる。そのたびに天地がものすごい勢いで捻れる。転倒しているようだ。肘を掴んでいた手のひらが腕に代わり、私の肘を左右からがっちりと固めた。何と心強い。

ドアを開けたら、強い光が何度も点滅していた。光に合わせて、水たまりを長靴で踏み鳴らす音が聞こえる。たくさんの人とたくさんの光源だ。そして、光源の方向には希望があった。

椅子だ。

これは現実なのだろうか?私が一番欲しているものが目の前にある。私は倒れかかるように腰を下ろした。終わった。私はこのパイプ椅子へ座るために高野豆腐の上を歩き、額の鬱血を我慢し続けてきたのだ。何故にマイク?私か?私に残っているのはもう、身体感覚だけなのだが。それでも構わないというなら理解できないこともない。それがここに座り続ける対価というのなら、喜んで喋らせてもらう。で、何を?

何かを言葉にしたことは薄く覚えている。その時はとにかく、椅子に座り続けていられるのが幸せだった。これらの全てが夢などではないことに気が付くのはまだ先のことにしておきたい。

まだ気付きたくない。
 
 
 


湖の駅

 
 
光がほとんどない、山間の夜道を自動車でゆく。

延々続くゆるい上り坂が終わると湖が見えるはずだ。そこにある駅を目指している。道中はとにかく真っ暗で、時折現れる無人のドライブインや食堂の小さな灯りによって、ここがまだかろうじて「人里」であることを確認できる。

突然のカーブ。
後部座席に乗った赤ん坊はキャッキャと喜んで揺れを楽しんでいる。ジェットコースターのようなものだと思いこんでいるのだろうか。その天真爛漫さが唯一の救いに思える。

いきなりヌッと一部だけほの見える巨大な橋や、やはり巨大なコンクリート製の塔。すべて作りかけに見える。用途は不明だ。それらは暗闇に突然現れて、消える。

湖が見えてきた。その脇の一カ所に強烈なハロゲン灯が密集していて、光が湖面に映り込んでいる。

たぶん、ここが駅だ。

湖の脇に車を駐めて赤ん坊を抱きかかえ、剥き出しの鉄骨で出来た階段を登る。駅の構内はスタジアム並に明るいのに、人の気配は全く感じられない。切符売り場のガラス窓も閉まっていて、レールの部分に埃が詰まっている。もうずいぶんと使われていないのだろう。おそらくハロゲン灯はタイマー制御だ。

陸橋通路の窓からは湖が見える。湖だけが光っていて、他は全く見えない。
遠くの方で汽笛の音が聞こえて、しばらくしたら電車がやってきた。電車はここには停まらず、速度を落とさずに陸橋の下を暗闇に向かって突き抜けてゆく。

「ほら。これが電車だよ。初めて見ただろう」

轟音の中で赤ん坊に話しかけたけど、たぶん聞こえていない。赤ん坊は口を開けて、小さくなってゆく電車の細長い光を見続けていた。
 
 
 


芋虫毛虫

 
 
あの頃、なぜ芋虫や毛虫の類を、「気持ち悪い」と思ってはいけなかったのだろう。

誰から言われたわけでもないのに、物心付くころから、芋虫や毛虫に対して「気持ち悪い」と思うことは不道徳であると、かなり厳格に思っていた。

あれは赤ちゃんみたいなものだと。
あれは生命の不思議をまんま体現しているじゃないかと。

はっきりと脳裏にそう刻みつけて、暗唱しながらそれらを見る。そんな時は自然と睨みつけるような表情になっていて、視線は必ず芯をはずしている。

無理すんなって。気持ち悪いんだろ?

自分で自分にそう言い聞かせることが出来るようになるまでには、とても長い時間がかかった。

あの友人を思い出す。
芋虫、毛虫の類を見かけると必ず自転車の前輪でひき殺し、でなければ手近に落ちている石を落として圧死させていた友人は、大人になって園芸の道に進んだ。当時の姿を知る人間から見れば、それは結構感慨深い。今になって思えば彼は彼の生理を真正面から芋虫、毛虫の類にぶつけ、なにか「実感」を得ていたのだろう。決してほめられた方法じゃないけれど。生き物の命と引き替えにするには、ずいぶんと安い実感かもしれないけれど。

それを脇で見ながら、「やめなよ」と紋切り型を繰り返していた僕は、まだわずかに動いている虫の半身や飛び散った体液から眼を反らすことしか出来なかった。

たぶん彼は、それを正視していたのだと思う。「きもちわりい」と言いながら、自分の起こした気軽な生殺与奪の顛末を、自分の眼で捕らえていたんだと思う。流れ流れてその結果が園芸の道。いいことなのだろう。きっと。

まさか殺しはしないけど、ある日青虫を見ながら、わざとらしく独り言を言ってみた。

うわあ。気持ち悪い。
あー気持ち悪い。

罪悪感は無かった。そして、その時口に出せるだけの生理的な嫌悪感を露わにした後にやっと、目の前の青虫の緑色がすこし黄色がかっていることに気が付いた。小さな斑点が、白と黒の二重丸になっていることにも。

そいつがどんな名前の生き物なのか、生まれて初めて知りたいと思った。
 
 
 


雨の料理店

 
 
丘の上にある東南アジア料理店は露天風の店構えが売りで、僕はあまり面識のないカップルと三人でこの店に訪れた。

二人は僕に、好きな席について構わないとだけ伝えて、僕から離れてカウンター席についた。邪魔をするなという意味なのかなと思いながら、僕は四人がけの席にひとりで座った。

なんで一緒にいたんだろう?

雨が降っている。この店には何度か来たことがあるのだけど、なぜかいつも雨の日ばかりだ。僕が座った四人がけの席には雨よけの屋根がついている。だから上からの雨は避けることができるけど、横から入り込んでくる雨は避けようがない。僕は右肩から濡れはじめた。

どうして僕はここに座ったのだろう。後悔していたら「相席よろしいですか?」と訊ねながら日系人の男性二人組が僕の隣と向かいに腰かけた。塞がれた。これで席を立てなくなった。他に空いている席はいくらでもあるのに、なぜこの席なんだろう。考えている間に右肩から染みこんでくる雨が、シャツにまで浸透してきた。

雨に当たりすぎて寒い。僕は肩をすぼめながら食事が配膳されるのを待っていた。

そういえば注文をした覚えがない。けど、なぜか配膳してもらえるという確信だけはあって、それに何の疑いも持たないまま、ずっと、右肩を濡らしながら座っていた。雨はたぶん止みそうにない。
 
 
 


二人きりで

 
 
 
横断歩道で待っている女性は、お腹をさすりながら嬉しそうに笑っていた。

押しボタン式の信号に気付いていない。信号はずっと赤のままだ。
近づいて声を掛けようとしたら、女性は妊婦だった。立ちっぱなしのままやっぱり笑ってる。多分幸せで仕方ないのだろう。邪魔してはいけない。

その女性を見ていると、父親の気配が無いことに気が付いた。
実際に父親がいるのかいないのか、そのあたりは全くわからないけれど、たぶん、

その時はきっと世界中に彼女とお腹の子二人しかおらず、それを見る僕らは電柱とかとおんなじ単なる風景でしかなく、

だからこそ彼女は、お腹の子と二人きりで、二人きりで笑っていたのだろう。
 
 
 
 


ゴムタイヤ膨らませ選手権

 
 
一回目のトライに失敗した僕は、次こそは成功させようとゴムタイヤのノズルを咥えた。
さっきは一息で膨らませようとしたから失敗したのだ。次はできるだけ小刻みにやる。

僕は荒い呼吸を心がけながら、小刻みにゴムタイヤへ息を送る。ゆっくり膨らんでゆくゴムタイヤはある大きさからドーナツ型の形状を逸脱し始め、ところどころに鏡餅みたいな膨らみが出始めた。息の流入は完全に勢いづいていて、僕の意思ではもう止められなくなっていた。

「もう割れる。そろそろ危ないです」

脇で聞こえる声にはっとして、僕はゴムタイヤを見る。分厚かったゴムタイヤは膨らむ毎にどんどん薄くなっていって、質感にも変化が出始めた。荒いゴムの質感だったはずなのに妙な艶が出始めて、かつてゴムタイヤだったそれはなんだかキノコ雲のような不気味な形に変化していた。

破裂したらまずいと思って、とりあえず不気味に膨らんだゴムタイヤを近くに駐めてあったセダンのトランクに押し込み、僕も頭をトランク内に突っ込んで、再びゴムタイヤに息を送り込んだ。

まだ大丈夫だ。まだ若干余裕がある。
セダンが傾き始めた。また何かまずい兆候なのだろうか。脇から裏返った声が聞こえる。

「もういいですから。もう優勝ですから。やめましょう。もう危険です」

僕はそれを聞いてもまだ息を流し込むのを止められず、息は次第に荒さを増し、顔はどんどん熱くなり、黒いゴムタイヤはひたすら膨らみ続けた。
 
 
 


乾燥したい

 
 
例えばウルスラ・イグアランは、コオロギのように小さくなって死んだ。
例えば僕の祖母は、手足の節がくっきりした枝みたいになって、それが変な方向に曲がったり、折れた枝には添え木をされたりしながら、カラカラに乾いて死んだ。

かつてその身体に満ちていた水分を全て身体の外に還し、自分は抜け殻となって終わる。とても理想的な終わり方だと思う。

僕の水分はまだ身体の中にある。少しは還しながら日々を送るべきだと思っていても、結局水分をひたすら溜めるだけの日々。ためしに身体のどこか一部分を動かせば、ほんの少しだけ遅れて水分がついてくる感じ。水は僕の中だけで周回運動をしている。

水は流れてこそ意味がある訳で、滞留した水は腐るばかりだ。
先々どれだけ還し、どれだけ乾くことが出来るのだろう。流れた水の痕跡だけが残るカラカラに乾いた身体。憧れの姿だ。
 
 
 


モデルガン

 
 
サンタクロースはうちに来たことがないと知った数年後のクリスマスイブの夜。僕の枕元には立派なモデルガンがあった。

僕は子供ながら自身の頼りなさをとても自覚していたような気がする。子供だからという仕方のない事情以前の、何だか、根本的な。

それはあまり正視したくないことで、当時手元にあった怪獣のビニール人形とか大きなロボットとかに集中することで、僕は頼りない自分から何とか眼を背けようとしていた。

そんな気持ちを察したのかはどうかはわからないけれど、両親は僕の枕元に、子供には立派すぎる、黒くて大きなモデルガンを置いた。

奇妙な嬉しさがあった。モデルガンを片手に持つと、それだけで誇らしい。直前までの頼りなくぎこちない自分に、補装具を着けてもらったような気分だった。
そして、僕はその気分について、深く疑問を抱くことはなかった。

その玩具が「モデル」な以上、複製元のオリジナルが存在すると知ったのはそれから間もなくのことだ。僕の頼りなさの埋め合わせをしてくれる補装具のオリジナル。頼りない力の埋め合わせをしてくれる、とても心強い味方。

そういえば僕は、モデルガンを片手に持ち、構えてポーズを取ることばかりに夢中になっていて、不思議とそれを撃とうとは思わなかった。
弾丸を発射するものだとは知っていたのだけど、それをどこに向けて撃ったらよいのだか、いまいちはっきりと分からなかったのだ。

「決まっているじゃないか。悪い奴だよ」

テレビの中に悪い奴はいっぱい居たけれど、このモデルガンの的にしていいほどの悪人や怪物は、僕が生活する世界を見渡す限り、どこを探してもいなかった。

ある日、一枚の写真を見た。

両親が持っていた雑誌の一ページ。モノクロだからずいぶんと昔の写真だったと思う。帽子をかぶった精悍な白人の軍人たちが並んで、僕が持っているモデルガンの「オリジナル」を手にしていた。

並んだ軍人たちの前には、僕らに少し似たような感じの生活感がある服を着た男性たちが、やはり並んで立っていた。表情はわからない。全員目隠しされていたから。

「オリジナル」の銃口は、目隠しされていた男性たちに向けられていた。既に漠然と知っていた気もするけれど、その時改めて、銃というものは人間を撃つことを目的として作られたものだと、人間を殺すための道具だと思い知った。

ためしに自分の足を撃ってみる。涙が滲むほど痛い。その痕は数日間、痣になって残った。

結局その立派なモデルガンは箱にしまったまま、しばらくしたらどこかへいってしまったけれど、今でも少し謎が残っている。モデルガンを作る会社の人たちは、子供たちに何を撃って欲しいと思っているのだろうか。なぜ、人を撃つための道具を複製するのだろうか。

そして何より、なぜ、僕を含めたみんなが、それをカッコイイと思ってしまうのだろうか。
 
 
 


割れ鍋に割れ蓋

 
 
まったく覚えが無いのだけど、とにかく、ホテルのベッドの上にいた。

驚いて飛び起きて、とりあえず洗面所で水を一杯飲んだ。そこにはやたらと大きな鏡があって、扉を開けっ放しだったおかげでさっきまで寝ていたベッドの様子がよく見える。

人がいる。女性だ。よく見えないけど、たぶん裸だ。
見覚えがある。昔つき合っていた人だ。
女性はこっちを見て、ちょっとだけ申し訳なさそうに言った。

「ずっと黙ってたんだけど、私、ものすごい浮気性なの」

そういうタイプには見えなかったなあと思いつつ、驚いた旨を素直に伝えると、

「あなたもそのうちの一人。当時あなたに伝えた私の事情もほとんどが嘘。ごめんなさい。これくらい時間が経たないと言えなかった」

当時言ってくれればよかったのに。
そうすれば少しはお互いに楽だったかもしれないのに。

彼女は自身の病的な浮気性に振り回される毎日から未だに逃れられないらしい。その割には一途でなくてはならないという矛盾した思いもあるそうで、常に複数の相手に真剣な愛情を捧げているそうだ。全く気が付かなかった。

「そんな時間があるようには思えなかったんだけどなあ」

どうやら彼女が常に考えているのは時間のやりくりのことばかりだそうで、それはそれでひどく骨の折れる日々だろうなと想像できる。僕にはその甲斐性は無い。

「怒らないの?」

今更怒るも怒らないも、と思ったところで、当時の自分だったらどう思っていただろうなと想像してみた。
少し巡らせただけで、考えを止めたくなるくらい醜い自分を想像できた。正直、そんなザマになるのを経験しなくて良かった。

「ありがたいと思っています」
「ごめんなさい」

そうだった。確かに僕らは当時から、常に噛み合っていなかった。
 
 
 


レコード

 
 
彼女の部屋で、見慣れないものを見た。
リビングにある食器棚の上に置かれた透明なシャーレ。中には薄いピンク色の糊状のものが入っている。ジャムの残りかと思ってシャーレを手に取ろうとしたら、

「さわらないで」

と彼女に一喝された。どうやら食べ残しではないらしい。気になった僕はこれは一体何なのかと聞いてみたけれど、彼女は微妙に話をそらすばかりで一向に教えてくれる気配がない。僕が何となく黙ってしまうと、彼女がちらりと僕の顔色を窺ってから、少し申し訳なさそうに言った。

「別に秘密にしたい訳じゃないんだけど、変に思われたくなくて」

隠している方がよっぽど変に思われるよともう一度聞いてみると、彼女は不安そうな表情でしばらく黙ってから、「変に思わない?」と何度も念を押した。そんなに変わったものなんだろうかと一瞬たじろいだけど、今更引くに引けなくなった僕はわざと何でもなさそうなそぶりを見せながら、今更そんなシャーレがあってもなくても十分あなたは変わっているよと冗談を言った。

「それ、私の体液」

表情は嘘をつけないんだと思い知った。僕の表情が一瞬固まったのを彼女は見過ごさなかった。相当注意して見ていたのだろう。念押しされた手前、僕は驚いたままこの状況を放置しておく訳にはいかなかった。

「何かの検査?」

できるだけ日常的な事柄に落とし込もうとしたけど、彼女は首を横に振って「何て言ったらいんだろう」と説明する言葉を探している。僕は少しだけ聞いたことを後悔していた。黙って放っておけばよかった。

事は、彼女が大手化粧品会社のモニターに応募したことから始まったらしい。あわよくばアルバイトの口となる切っ掛けになればいいと使用感を詳細に綴ったレポートが評価されたらしく、ある日本社に呼ばれた彼女は、化粧品とは別の新製品について説明を受け、言われるがまま被験者となったそうだ。

「それで、体液を部屋に置いている訳なの?」

正確には体液ではないらしい。あのピンク色の糊は彼女の体液にいくつかのタンパク質を混ぜたものらしく、常温で放置しておくと、『その場の雰囲気』を正確に記録するらしい。

「今の会話も記録されているの?」

彼女はまた首を少しかしげて「説明が難しいのよ」とさっきと同じようなことを言った。
どうやらその混合液は印画紙や磁気テープのようなものとは違うらしい。出来事の記録は体液の持ち主自身の頭の中で行われる。脳が日常的にやっている「記憶」だ。つまり記録すること自体は、何の変哲もない日常動作だ。ピンク色の糊を置いておく意味がない。

「だから、その場の雰囲気を記録しているの」

どうやらピンク色の糊は一定の時間が経つと色を失って、それ以上『雰囲気』が記録出来なくなるらしい。しかしそれをそのまま冷凍庫に入れて凍らせると、『雰囲気』だけを半永久的に保存出来るらしい。

「実際に時間を遡る訳じゃないんだけど、感覚的にはそれに近いかも」

凍らせた『雰囲気』は常温で解凍したあと、そのままバリウムのように飲み干すことで作用するそうだ。効果は体液の持ち主本人にしか現れないらしく、数分経てばピンク色の糊に記録された『雰囲気』が脳のどこかを刺激して、眠っていた記憶のうち、雰囲気を記録していた時間帯分の全記憶が脳のワーキングメモリに一時的に復帰するらしいのだ。

「本当に、ちょっとの間だけ『その時』に戻るの。頭の中だけ」

彼女が嘘を言っていないことは表情でわかる。突飛な話だと思ったけど難しいことは分からない。僕は何となく納得した。

「でも、使い道、あるのかな?」

「そりゃあると思うよ。結婚式の素敵な思い出とか、子供の七五三とかね。記念写真みたいにその辺にシャーレを置いとけばいいんだもの」

「飲み干して、『あの時』に一瞬だけ帰ったとしても、その一回だけなんでしょ?何だか空しくなっちゃうんじゃないか?」

「それもそうね。でも、雰囲気が冷凍されているって、それだけでも記念品としては十分すぎる価値があるようにも思うけど」

「それこそ、写真やビデオでいいじゃん」

ピンク色の糊が及ぼす効果の不思議さに驚きつつも何となくそれに抵抗を感じて、僕はありとあらゆる否定要素を持ち出して取るに足らないものだと言い捨てようとしていた。今思えばむきになっていたと思う。

「じゃ、あなたはこれが発売されても買わない。それでいいじゃない」

その話題は彼女の言葉を最後に終わり、僕は雰囲気が悪いままであることに気まずさを感じながら彼女の家を出た。
数日間何となく気まずくて電話もメールも出来なかったけど、根負けしてごめんなさいのメールを送ったら、返事が来た。

「ふたりの時間を記録したかっただけです」

折角の記録を口げんかみたいなもので終わらせてしまった事を僕はずいぶんと後悔して、もう一度ごめんなさいとメールを送った。数分後に「しつこい」と返信があった。

あれから結構な時間が経って、僕らは一緒に暮らしている。おそらく冷凍庫の奥には『あの時の雰囲気』がラップに包まれたまま凍っていると思う。どうせ険悪ムードな記録だと分かっているので、きっと解凍はされないだろう。
そういえば今になっても、あれが商品として流通したという話は、まだ聞こえてこない。
 
 
 
 


カブトムシ

 
 
夕方6時のニュースを聞きながら、僕は透明ケースの蓋を開け、中を覗いた。

一匹の大きなカブトムシが、腹を上に向けている。僕のカブトムシだ。
もうずいぶんと弱っていて寝返りが打てない。口からオレンジ色の舌が時折出たり入ったりしていて、6本の足のうちどれかが、ときどき小さく動く。

オガクズと蜜の匂い。夏の夕方に肌で感じるすえたような空気。

暑さの盛りを幾分か過ぎた夕方はやや涼しさが過ぎていて、時間が過ぎる度に周りの色が沈んでゆくのがわかる。

全国のニュースから地域のニュースに切り替わった。近所にいそうな風情のキャスター。途端に滲み出る地方色。

それに応えてか、ミリ単位で足を一本上下させるカブトムシ。少しだけつつくと、カブトムシは小さく舌を出した。

もうエサはいらないかな、などと考えているうちに、ニュースが今夜と明日の天気予報を伝える時間になっていた。薄い暗がり。明かりをつける直前の時間帯。

まだ動くかな。もう止まっちゃうのかな。

小さな、本当に小さな動きを確認しようと眼を皿のようにしているうちに、本当に夜になってしまった。

退屈なニュースが終わった。そろそろ7時だ。毎週見ている番組が始まってしまう。僕は透明ケースの蓋を閉めて、テレビの前に急いだ。
 
 
 


金魚の群れ

 
二人で土手を下って、河原に出る。
大小の石がごろごろしている河原はとても歩きにくく、友人と僕はおぼつかない足取りで何だか踊っているような動きをしながら目的の場所に向かう。

金魚の群れを見に行くのだ。

川の脇には大小の水たまりがいくつかあって、その中でもひときわ大きい池みたいな水たまりには、驚くほどたくさんの金魚がいるそうだ。

「でかいよ。ずいぶん」

友人が呼ぶ声のままに池の端を見ると、10センチくらいの金魚が悠々と泳いでいた。まるでフナだ。目をこらしてみると水草の陰や石の間に何匹も発見できる。

「これだけいれば、簡単に捕まえられそうだね」

ためしに手を伸ばして捕まえようとする。野生化した金魚はするりと手のひらをすり抜け、池の中心まで泳いでいった。僕らは逃げた金魚を目で追いかける。池の中心は数え切れないくらいの金魚が密集して、赤インクを大量に垂らしたような色に染まっていた。

赤インクの周囲には金魚以外の魚も泳いでいた。大きなドジョウ、マス、真水クラゲ、国産とは思えない色のついた淡水魚など、ありとあらゆる魚がそこにいた。

「金魚どころじゃないね。どんな魚でもいる」

水がとても澄んでいるので、向こう岸にいる魚まで見ることができる。二人はため息をついて、岸に転がっていた大きな石の上に腰かけた。
そのまま夕暮れになるまで、魚たちを眺めながら長い時間をかけて世間話をした。友人と一緒に遊ぶのはずいぶんと久しぶりなので、話は弾む。互いの空白を埋める時間がだいたい終わる頃、友人がポツリと言った。

「実は俺、今度教師になるんだ」

それはいい。ぴったりだ。本当にいい。
彼の明るい先行きを喜びながら、僕らは日が暮れる前にそれぞれの家路についた。
 
 


神々の名

 
 
しばらくの間、目の前の丸いお皿に置かれた食べかけのトーストを見つめてから、彼は言った。

「パンの神様は?」

口ごもってはいけない。即座に返事をしなくてはならないのだ。

「砂糖の神様です」

彼は笑って目の前のパンをかじり出し、嬉しそうに再び質問を始める。

「おいしい。コロッケの神様は?」
「山いもの神様です」

考える時間は無い。即答で返し続ける。

「冷蔵庫の神様は?」
「マッチ箱の神様です。ただし半分だけ」

「半分の神様。わりばしの神様は?」
「輪ゴムの神様です」

「ジャンケンの神様は?」
「ひらがなの神様です」

自由連想法のみたいなものだろうか。しかし目的は無い。とにかく語尾に『神様』をつければ何でもいいのだ。彼は笑顔を浮かべたり顔をしかめたり、すこし跳ねて頭を抱えたりしながら、そこら中に潜む神々の名を言語化してゆく。僕はそれに追随するように、そこから洩れた神々の名を補足し続ける。

「ラッパの神様は?」
「イトーヨーカドーの神様です。駐車場の」

とにもかくにもそうやって、彼と僕は神々を顕在化させ続ける。
過去のだれかが言っていたが、宿る神々は八百万柱はいるとのことだ。

二時間ほどで母親が帰ってきて、その日の儀式は終わる。数年間続けているのだが、未だ終わる見込みはない。
 
 
 


残骸

 
溶けたり、爆発したものが置き去りになったまま、その日の夜がやってくる。

次の日。
前日置き去りにされたそれらには白いシーツがかけられていて、シーツの上からその残骸のおぼろげな輪郭だけを見ることができる。

その次の日。
それらは白い紙箱の中に入れられた。

その次の日。
白い紙箱の各面を止めるため、所々にシールが貼られた。

その次の日。
白い紙箱にリボンがかけられる。

その後。
目で確認できるのは白い箱とかけられたリボン。中身はもう見えないが、何が入っているかはちゃんと覚えている。箱は開けない。中身はかつてあったものの残骸なのだ。いつ開けたとしても在りし日の姿はなく、それらは、溶けたり、爆発した果ての姿でしかない。

ずいぶん時間が経ってもまだ白い箱は在り続け、箱越しに想像するそれは、時により在りし日の姿であったり、残骸そのものだったりする。
 
 
 


別れ

 
毎日見慣れた役場の脇のイチョウの木、
でこぼこした用水路脇のアスファルト、
煉瓦を敷いた夕方の歩道、
通りを横切る自転車と、楽しそうに歩く学生服。

コンビニの店員、いつも曲がる角にある古い木で出来たゴミ収集所、
コンクリートの外壁に囲まれたお寺、ピカピカのカーブミラー、
次の角にある家で飼っている犬に、勝手につけたあだ名。

マンションの入り口、2段しかない階段、
エレベーターのスイッチを押すまでの数秒間。

玄関で迎える笑顔、仏頂面、なんともない顔。
おかえりを言う日と言わない日、

彼の家族だ。

玄関の手作り表札、壁に飾られた似顔絵、
結局手伝うはめになったキャラクターものの大きなパズル。
毎日囲んだ木製の四角い食卓。
動物の貯金箱、集合ハンガー、娘のランドセル。
決意のもとに購入したストップウォッチ。

みんな彼のものだ。
みんなこれから、彼がここに置いていくものだ。

よろよろと歩く彼の腰を支えながら、
「無理だけはしないでくださいね」と、控えめを装って何度も何度も言う。
彼はたいして頷かず、言葉の切れ目に入り込むようにして、
「ご忠告、よく覚えておきますね」と、こちらを見ずに言った。

これから彼は、全てのものを置いて遠い遠いところへ行く。

彼は最後にこちらを見て
「なるべく早く帰ってきますから」と、
照れたような笑顔で言った。

もう会えないんじゃないか?

一旦そう思ったけど、かぶりを振って、
僕は玄関を閉めた。
 
 
 


笑いながら

 
その不満とやるせなさと憤りを何度も何度もひっくり返して、笑いながら、できるだけ良いことをしながら毎日。毎日。

なんだか泣いている女の子がいて、なんで泣いているのかわからないまま適当に励まして、いい気になった数日後、その子の左腕にはっきりと刻まれた傷。

飛び降りた時、驚いた表情を浮かべてたんじゃなかったか?そしてすぐにたくさんの「ごめんなさい」を伝える先もわからないまま唱えてたんじゃなかったか?

無数のこんにちはとさようなら。

ジクジクとした事ばかりを考える時、頭の後ろで啼くアブラゼミの声と太陽とヒマワリ。いつの間にこんな風になっちゃったんだろう。

大きな口をあけた子供。歯の裏まで見える。真っ白だ。

平和ボケ。内側から腐ると呟いた女性、トイレットペーパー、それらを全て帳消しにするだらしのない欲、欲、欲。わかってたつもりだったんだけどな。気が付いたらベルトコンベアの上だ。

ひとりで小さく笑う癖。
人前で顔をしかめ続ける癖。

カレンダーを見ながら思うことがどんどん少なくなって、気が付いたら曜日が曖昧。日付も曖昧。月の境目には今が何月かわからなくなっちゃって、今話してる相手の名前を忘れたまま会話を繋ぎ続けてどこまでも。

次の暖かい季節になったら、何かをしよう。

そのくだらなさとつまらなさと打算を何度も何度もひっくり返して、笑いながら、できるだけ良いことをしながら毎日。毎日。

どこでもいいから、早く帰って、「ただいま」を言おう。
連呼するのだ。次第にふくれあがる大量の「きのう」を反芻して。

笑いながら。
 
 
 


ハザード

 
真夜中に特殊車両が路上駐車して延々ハザードを焚いている様子は、いつ見ても妙な事件性を帯びている。

その夜も真っ暗な駅の前で、かろうじて業務用とだけ分かる緑色の特殊車両が数台並んで路上駐車していた。

だれもいない。ずっと続いているハザードの点滅。何が起きているのだろうと部外者の僕が考えたところでたかが知れている。結局なんにも分からない僕の立っている場所は、出来事の外側だ。

とにかく近付かない限りは安心だ。僕はハザードの点滅する光に気づかれないように、ゆっくりと視界の外へ逃げた。逃げる先はいつもの暗い町だ。
 


 
僕の住む部屋には窓がない。窓枠をはめる四角い穴だけが開いていて、いつも外気に晒されている。アパートのすぐ隣には工場があって、工場は建物ぎりぎりにひっついている。
だから冬場でも凍えることはない。

ある日工場が突然取り壊された。

外気をふんだんに取り込むようになった僕の部屋。とてもじゃないけど暮らしてはゆけないので工場主に文句を言ったら、リフォーム業者がやってきた。彼らは部屋の様子や建物の周りをひととおり見たあと、全面的な改修工事が必要とだけ判断して、軽トラックで去っていった。

寒い部屋で待つ。

戻ってきた軽トラックは、10枚くらいの襖を積んできた。どうするつもりなんだろうと不思議に思いながら見ていると、リフォーム業者は大きなハンマーを持ち出して、あっという間に壁一面をぜんぶ取り壊してしまった。

眺めの良い部屋。

リフォーム業者は手際よくそこに襖をはめてゆく。どの襖にもきらびやかな大八車の絵が描かれていて、ひょっとしたらとても高価な襖なんじゃないかと不安になった。

「大丈夫ですよ。無料です」

安心しつつも申し訳なさが拭いきれず、軽トラックが去ってゆくまで、僕は何度も頭を下げた。

雨に濡れたらどうするのだろう?
やっぱり結構寒いんじゃないか?
そもそも建物の外壁に襖っておかしくないか?

考えるのはやめにした。もう工事は終わったのだ。
セーターを着て、手袋をはめて、上着を羽織って、襖をすべて開けてみる。

晴れていた。ほんとうに良い景色だった。
 


お神輿

 
夜、沿道でお神輿を見ていた。

担ぎ手たちは、僕がもう連絡を取らなくなった知人達で構成されていて、みんな明るく一生懸命な、とても魅力的な表情を湛えながら、汗を流してお神輿を担いでいた。

あちこちに据えられたスピーカーからそれぞれ別々の音楽が流れてくる。最初のうちはどんな音楽が流れているのだろうと耳を傾けていたけれど、だんだん疲れてきて流れるまま混ざり合った音を聞いているうちに、自然と身体が熱くなってきた。

たくさんの湿気を孕んでいるおかげで、空気に少しだけ重量がある。妙に心地良い。
僕は酔っぱらっているのだろうか?

建物の影から、半被を着たかつての知人達がひとりづつ現れて、腕まくりをしながら神輿担ぎに向かってゆく。沿道でかき氷を食べながら、やはり僕はそれを見ている。

どうして、あまり羨ましくないんだろう?

お神輿に向かう一人が、僕の存在に気が付いた。
彼は僕に笑顔で手を振って、口の動きだけで「ひさしぶりだね」と言って、既にお神輿を担いでいる何人かに僕の存在を知らせた。知らせを聞いたそれぞれの眼が僕を探し、目が合うと笑顔をこちらに向け、また神輿担ぎに精を出す。

理由もなく嬉しかった。僕は彼らが向けてくれた笑顔に酬いなくてはと思った。思い直して背筋を伸ばし、幾分か眼を大きく開けて、一生懸命お神輿を見続けた。
 


消えた歌手

 
知らない間に、その歌手は消えていた。

引退したのか行方不明になったのか、ひょっとしたら何らかの事故とかで亡くなって、それも結構有名な話だったりするのか、詳細はわからないが、とにかく消えていた。グーグルで検索しようにもきっかけがない。周りの人に聞いても、だれも知らないという。

妄想だったのか?

記憶に残っているその歌手の歌を口ずさもうとしたら、後頭部あたりで引っかかって出てこない。メロディーも、歌詞も。

いや、知っているんだって。すぐこのへんまで出てきてるんだって。勘違いとかじゃないんだって。

自分に言い聞かせても意味がない。鼻歌を歌おうとしても口が小さくパクパクするだけ。もどかし過ぎてなんだか痒い。

歌い出しの前の気配と、歌い終わりの余韻だけが、わずかな香り付け程度に残っているのだが。
せめて男か女かぐらいは思い出せてもいいはずなのに。

窓の外を見ても思い出せない。
こんな風な、何でもない日常を歌っていたような気がするのだけど。
 


ぬるい水

 
時計の無い場所でうたた寝をして、起きた。
うたた寝の間は当然意識は無く、そこから目覚める時は大抵「しまった」と焦るのだけど、何がどう「しまった」なのかわからない。何せ時計が無いのでどれくらい寝ていたか計りようがないのだ。

目の前のグラスにはぬるい水が入っている。灰皿はとても冷たい。黄色っぽくて明るい照明の向こうにたくさんの人がいるけど全員知らない人ばっかり。妙に安心しながら思う。

「ああ。一人だ。この上なく一人だ」

今が何時かなんてどうでもいい。
自分が席を立つまでの時間は無限にある。もう一度眠りについても、誰も気にもとめないだろう。

何もしない。そこにいる。眠りこけても夢すら見ない。
自分の時間を自分で決めた結果は、そこに座り続けることだった。
 


演技

 
舞台を降りるとき、演技をやめられない自分に気が付いた。

ああ、自分は思ったよりも、この舞台に全てを賭けていたのだな。気が付かなかったな。と他人事のように思いながら眠りについて、

翌朝、やはり演技は続いていて、いよいよ大丈夫かなと修正にかかる。

で、これがなかなか抜けてくれない。演技はしぶとく自分の日常動作の端々に現れる。まるで癌の転移だ。

やがてだいたいの行動規範が、自分ではなく、演じている「そいつ」がどう思うかに依るようになってしまった。

そのまま毎日が展開してゆく。人と会い、新しいことを起こし、放心状態のまま自分は自分の中で、「もう負けました」と言い続けるだけの存在になってしまった。

自分の演じている「そいつ」は、どうやら近々結婚するらしい。相手は「自分」の好みのタイプだ。

嫉妬している。でも、そのやり場がない。
ならばと自分が消えようにも、消えられない。
 


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