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2008年11月

軽自動車のスピーカー

 
駅の裏に軽自動車が
エンジンをかけたまま一台停まっていて

車の屋根についたスピーカーから
女性の声がする

拙い口調で
何かを訴えているようだが
雑音のせいで良く聞こえない

近づいて
運転席を見たら
誰も乗っていなかった
 


テントウムシ

 
数年前、ビルの壁がクリーム色に塗り替えられた。

その際、一匹のテントウムシがクリーム色のペンキで壁に塗り込められ、現在もそのままになっている。

小さなプラモデルみたいになったテントウムシは、不運な事故の痕跡として数ヶ月前に近所の子供により発見され、

それからしばらくの間、クリーム色の壁には、
セロテープ貼りによる気まぐれな献花が行われた。
 


空気を打つ

 
小さな男の子が
下敷きをラケットのように構えて
空気を打った

少し離れたところに立っている
もう一人の男の子は
微かな風圧を感じた後
やはり下敷きをラケットのように構えて
それを打ち返す

ゆっくりと交わされる
空気のキャッチボールは
風のない屋外でしか出来ない

少し風が出てきたら
二人の男の子は
並んで座り

眼を閉じて
風が止むのを待つ
 


紙縒

 
紙縒で作られた薄い灰色の紐
それを丁寧にほぐしてゆく

指を紙縒と逆方向に捩ると
皺だらけの短冊が現れる

短冊は古い新聞を切り抜いたもので
よく見ると日付欄が
母親の誕生日になっていた

その日付を見ながら
重要なことを忘れていた、ということを
一瞬だけ思い出せそうな気がしたが
またそれも
一瞬でどこかへ行ってしまった
 


平均の味

理由もわからないまま、その白濁した液体を飲み干す。

美味しくも不味くもない。
どうやら色々なものが混ざりすぎて、即座に味が判断出来ないようだ。
丁度中間の味。味覚が反応できない完全平均の味。

今飲んでいるものが何なのか、わからない。
不安だ。それでも飲む。

これはどうやら、私のためにつくられた飲み物らしいのだ。

それは少しづつ、無感動と共に私の体内に取り込まれ、
いずれはどこかへ出て行く。


赤い筒

 
熱して赤くなった
透明な筒を見ながら
考えを止める

空気の見え方が
微かにゆらいで

喉仏の下あたりから
身体の水分が
少しづつ空気中に抜け出てゆく
 


水滴の音

 
夜中
ピタリと水滴の音がする

ここには水が出る設備がない
けれども一分おきくらいに
ピタリと水滴が鳴る

真夜中なので音はなく
電気もないので視界は無い

それらが満ちた
何ともなさすぎる時間を
水滴がピタリと
小分けに区切ってゆくにつれ
朝が近づいてくる
 


ツマミ

 
ツマミを回すと
金属パイプの先から
水が流れ出した

ツマミはもう一つあって
それをゆっくり回すと

流れている水が
少しづつ暖かくなる
 



散り際の花がいくつもついた枝を片手に
歩道を歩いていた

曲がり角に差し掛かった時
物陰から出てきた自転車

枝はハンドルにぶつかって
花びらが全て散る

散った花は歩道を離れ
花びらと花びらの間も
どんどん離れてゆく


波線のカーブ


土蔵の二階には
亡くなった曾祖母の部屋があって
上衣が壁にかけてある

無造作にかけられた上衣の裾の
ゆるい波線のカーブ

そのカーブの形は
私が生まれる前から
そこにある


アンテナ

 
幾層の筒が重なって出来たステンレスの棒を
全体がたわまないように伸ばして

夕方

それを立てる

ステンレスの棒は
どこかから発信されている誰かの

話し声とか
奏でる音楽とか
遠いところのお知らせとか

それらを受信するのだが
受信するだけで
一向に聞こえてこない

ステンレスの棒はたまに震えるが
それは風を受けただけで

黙って
ひたすら
受信するだけ
 


羊羹


四角いお皿の上に
羊羹がひとつ

平らな竹の楊枝を
真ん中に差し込んで
手前に引くと

羊羹は
ふたつになった

ひとつはまだ
お皿の上にあるけれど
もう一つは
どこかへ持って行かれてしまった
 


冷気


エアコンで暖められた会議室の
入り口の扉が少し開いた

そこから少し
冷気が入ってきて

冷気はそのまま
入り口の扉から
奥にあるガラス窓まで
等速で移動した

冷気は
ガラス窓に貼り付いて
全面に薄く広がっていった


無量大数の縦線

雨の軌跡を眼で追って
細いソーメンのような糸を
何本もつくる

やがてその糸は束になり
白いカーテンとなり
厚みを増して
向こうの景色が見えなくなる

少し身体を投げ出して
そこを開け
そこをくぐる


花車

 
道の花を一本摘んで
指先でくるくる回したら
見ていた子供が
すこし笑った

気を良くして
子供が去ったあとも
指先でくるくる回していたら

曇った空に
晴れ間が見えた


名前のない人と

【Q】

 黒: なぜあなたには、名前がないのですか?

 白: なぜあなたには、名前が必要なのですか?

【Q】

 黒: 名前がないと、困らないですか?

 白: 名前がないと、困ることがあるのですか?

【Q】

 黒: 呼ばれた時には、どうするのですか?

 白: 呼ばれても、振り向かないのですか?

【Q】

 黒: あなたの人格は、どうなるのですか?

 白: あなたの人格が、どうにかなるのですか?

【Q】

 黒: 名前がなくて、不安にならないのですか?

 白: 名前があると、不安にならないのですか?

【Q】

 黒: あなたの存在を、どう証明するのですか?

 白: あなたの存在を、証明したいのですか?


城があった

 
町からすこし離れた高台にある公園の真ん中、四角く土が盛られた箇所。そこにその人は立っていて、人を見かけるたびに訴える。

「ここには、城があったんだよ」

通りすがる人は皆、無視をするか軽く会釈をするか、とにかく出来るだけ軽めにスルーする。

「城があったんだ。城があったんだよ」

そこには存在しない城を描写せんと、その人は一生懸命になって、両手で宙に描く。

「こことかにさ、こーんな。ほら」

皆、苦笑い。

周囲の無関心によるストレスが臨界点を超えると、少し涙目になって訴えは強度を増す。

「あったんだってば。城が」

四角く盛られた土の上には、それを覆うように雑草が生い茂り、通り過ぎる人々の脳裏にはやはり城は描かれることは無く、その人の訴える声と、訴える姿だけが記憶に薄く張り付いてゆく。

本当かどうかは知らない。
だけど、その人が訴え続ける限り、そこはいつまでも城趾にはならず、現役の、生々しい、城っぽいとも言えるような言えないような何かが大気中に満ちている。

それだけは、通りすがる全員が感覚で捉えていた。


分校での講座

 
ずいぶんと長く放置されていた分校の校舎で、その講座は行われていた。

何やら自己啓発的な匂いを含むその講座は、いくつかの部屋に分かれて、それぞれの講座を選択して受講できるシステムだった。

僕はなぜそこに参加しているのかわからないまま、廊下を歩いている。

自己啓発的な雰囲気はとても苦手だ。個人的には放っといてくれと言いたい気分だったけど、会場全体に漂う「自分の意志で参加してるんだから」的な空気が、じんわりと馴染むことを強要していた。

造りが適当なインスタントコーヒーは湯に溶けても芯が残る。どれだけかき混ぜても小さなカスが水面でクルクル回っている。

呆けたまま廊下を歩いている僕はそのカスか?本当に僕は自分の意志で参加しているのか?参加する心づもりになった覚えが一切無いのはなぜだろう。

廊下ですれ違う笑顔。

やっぱりやめて帰ろうか。あまりここに居たくない。
でも、誰にやめると言えばいいんだろう?

気が付くと廊下には誰もいなくなっていた。講座が始まったのだろう。各部屋からザワザワとした声が聞こえてくる。分校の外は昼前なのに夕方みたいな陽気。晴れている。なのに室内の蛍光灯はかなり煌々と照っていて、それがどことない異質な雰囲気を助長している。

所在ない。

何だか分からないまま引き戸を開ける。中では講座がもう始まっている。講座を中断された皆が一斉に僕の方を向き、講師らしき男性は優しい笑顔で僕に言った。

「あなたは、いいんですよ。別に遅刻をしても」

意味もなく優遇されている。不相応な扱いに思えて恐縮し、僕は引き戸を閉めてしまった。再び廊下で所在なし。

別の部屋でも、やはり同じような対応だった。どの部屋に行っても同じ空気。とにかく容認されている。ある部屋では既に顔見知りのような扱い。

「ああ、あなたですね。どうぞどうぞ」
「ご参加頂いても、頂かなくても結構ですよ」

親切がスプリンクラーのように撒かれている。
少し疲れたので廊下に座り込んだ。正直、優遇されているのは悪い気がしなかった。それだけで居心地の良さを感じている自分がとても軽薄に思えた。

ある部屋から笑い声が聞こえてくる。別の部屋からは複数の泣き声が聞こえてくる。

夕方五時になったら、この集団が一斉に廊下へ溢れてくるのか。
怖くなった。

僕はどうして帰ろうとしないのだろう。
帰る決断さえすればいいのに、どうして出来ないのだろう。


へんな鳥


小学生の頃
鳩の絵を描いた

拙い筆で描かれたそれを見て
誰も鳩とは言ってくれなかった

へんな鳥

それから何十年か経って
ひどく酔った帰り道
路地裏にポリバケツがあって

その中に
私の描いた鳥がいた

やはり鳩とは似ても似付かないその鳥は
片方の羽根と
首だけ突き出して
グエッグエッと啼いていた

私は鳩に口の動きだけで

「まだ、いき、てんの?」

鳩は口だけで答えて

「なか、よく、やろう、や」


金太郎飴


低く、鈍い銅鑼の音がひとつ鳴って、
私は白木でつくられた小屋の中に招き入れられた。

畳敷き。正装っぽく身なりを整えた女性がひとり。

女性の前にはかなり長めのまな板と、その上に置かれた白い棒状のもの。大きめの鉈のような包丁がひとつ。

座布団に座り、こちらから口を開こうとした隙間を縫うように、

「ようこそいらっしゃいました」

と女性が口火を切った。

「この白い棒は、飴で出来ております」

「飴細工ですか」

「はい。金太郎飴のようなものです。真ん中には鉛筆の芯のように赤色を挿しています」

「これを、どうするのでしょうか」

「そこにある包丁をつかって、お好きな長さでいくつかに切り分けてください」

「はい」

私は金太郎飴を4つに切り分けた。長さはバラバラだ。

女性は左端の金太郎飴を手に取って、断面を私に見せた。

「一番左端は、ごらんの通り赤が強く挿しています。この赤は右に行くほど細く、淡くなります」

女性は皮製の小袋にそれを入れながら言った。

「これが、貴方の最初の節目です。だいたい二十歳前後でしょうか。多くの方が、最初、このあたりに包丁を入れるそうです」

「これは、占いなのですか?」

「さあ。ここにあるのは白い飴だということしか、私にはわかりません」

女性は次に切り分けられた金太郎飴を手に取り、

「だいたいこの辺りは短いのです。多くの方が結婚をする時期なのでしょうね」

と告げて、また皮の袋にそれを仕舞った。断面の赤は、確かに小さくなっているようにも見える。

「この辺りから、皆さんそれぞれ包丁を入れる長さや回数が変わってくるようです。貴方は比較的包丁を入れた数が少ないようですね」

次の断片を手にとって女性は続ける。

「ここ辺りはご病気の時期なのでしょうね。赤が急に薄くなっているようです」

コイン状の薄い飴が皮袋に入れられる。

残りは一本。少し不安になって聞いてみる。

「この金太郎飴が一生の縮図だとすれば、右端は誰が切ったのですか?」

「さあ。誰が切ったのかはわかりません。私にわかるのは、その飴は、切られて、そこに置かれている、ということだけなのです」

右の断面を覗いてみる。小さく、針の先で突いた程度の赤い点が、淡く見える、ような気がする。

女性はそれを手に取り、また皮袋に仕舞った。

「さあ、全部詰め終わりました。次へどうぞ」

私は皮袋を持たされて小屋を出た。
さっき聞いた低い銅鑼が、また一回、ぼおんと鳴った。

良く分からないまま段取りだけが進んでいく。まるで健康診断だ。

「次」とは一体何なのだろう。
私は、何処へ行けば良いのだろう。
改めて周囲を見る。

そこには、景色というものが無かった。


滑稽なスーパーマン


スーパーマンが空を飛んでいる。

しかしスーパーマンは、いつもの両腕を突き出した空飛ぶ姿勢でありながら、そのまま後退するように飛んでいる。

雄々しく、猛々しく、真摯な面持ちで、厳然と後退している。

まるで時間の流れに足首を掴まれ、思い切り引っ張られながら、
勇壮な過去だけを眼前に捉えているかのようだ。

見上げる町の人は、その姿を格好良いと言う。
どうせ未来が不定形なら、あんな表情で過去を見据える凛とした態度でいたいもの、とのことだ。

たとえそれが、滑稽な姿だとしても。


煙は白い


これまでどれだけ焚いたのかわからないけど、
やはり今日も煙は白い。

風のない日は、立ち上る白が細く縮れて、
髪の毛みたいになって、すぐ消えてしまう様を一日中見てる。

時折渦が出来たり、

時折円環が出来たり、

ずっと見ているとシンとしてくる。

車の音や信号機の音や、
近くで鳴っている救急車のサイレンなんかが、
一切耳に入らなくなって、

怖いな。と、いつもの頭に戻す。

街路樹。犬を連れた人。背広姿。学生服。

夕食の匂い。

目の前にいる人が、いつかこんな煙になってしまうと考えると、すこし辛い。


その人の声


その人のことを考えて
その人の声を想像する

頭の中で再現されるその人の声は
あくまで想像された声で
その人の声に似ていたとしても
それは複製されたものに過ぎない

その人が死ぬ

頭の中に残っているその人の声は
持ち主が存在しないので
オリジナルなものになる

各々の脳内でその人の声は
たまに再生されるが
それは各々の脳内にある声色で

だれとも 共有ができない


シール


壁、トランク、机、ランドセル。

貼られたシールを剥がす時に感じる、何となく申し訳ない気分。
爪は平面をカリカリと撫ぜ、粘着質をかき集める。

そこに付着した垢。

糊と紙が、まるで蠅取り紙のように平面上に残る。
残ったソレは、不思議と淡い気配を帯びている。

目をこらす。

微かに見える。空気中のホコリがそこに吸い寄せられている。

平面上のソレは、いずれ形を成して「我ここにあり」と表現するのを夢見ている。

その時までは、甘んじて瘡蓋を纏い続ける。


drawing


水に流します。

drawing

よろしくお願い致します。


同じ動作


とにかく繰り返した。
同じ動作を、毎日。

長年続けたら、
動きのほんの少し先に、
幽霊みたいな自分の軌跡が見えた。

それにぴったり合うように動いてみる。

幽霊と重なった動きは、

なんだか少し、
光っているような、
ぶれているような、
そんな感じで、

その手触りには、
明日も確実にするであろう「いつもと同じ動作」に、喜びみたいなものを感じさせる力があるような気がした。

嬉しいと、すこし震える。


軌道


気づいたら私は
真空に浮かぶ球の周りを
ずっと廻っている

真空に浮かぶ球は
常に半球づつ照らされ
明るい半球は青と白のマーブル
暗い半球は闇に埃の白点

私の表面には金属の板が
全面に貼られていて
真空に浮かぶ球の周りを
何万回も廻るうちに
それが少しづつ剥がれてゆく

剥がれるたびに
私の軌道は大きくなる

いずれ軌道を逸れて
円軌道は終了する

ずっと半球を見てきた

いずれ私は
目視の行き届かない
黒い真空の中を
まっすぐ進んでゆくのだろう


マナーモード


皆さん。

マナーモードの時間になりました。

準備はよろしいですか?

では、マナーモードを始めます。

笑ってください。

声を出してはいけません。

そのまま、笑っていてください。

音を立てないで。

静かに。

笑い続けて。


実験


ある二人のカップルが、簡単な実験をした。

実験の規則は

・自分の事を『あなた』と呼ぶ
・相手の事を『わたし』とよぶ

以上の二つだけだ。

最初のうちは間違えたりつっかえたりと、なかなか上手く運ばなかったらしい。
しかし、一週間が経ち、一ヶ月が経ち、時間の経過によって変化が訪れた。

お互いの顔が似てきたのだ。骨格ではなく肉付きが似通ってくる。表情や動きのタイミングも驚くほど似る。声質は変わらないものの、言葉遣いや発語のタイミングもほぼ同じものとなり、他人が電話で間違えることも多くなった。発想や着る物もだんだんと近くなり、やがて双子のようになった。
二人は、特には互いに似せようと努力していた訳ではないらしい。自然とそうなったとのこと。

実験が終了すると、二人はゆっくりと以前のように別々の「男女」に戻っていった。

やがて、二人に子供が出来た。

子供は『双子時代』の両親に驚くほど似ていたという。


サンドバッグ

サンドバッグに、顔が浮かびます。
あまり好ましくない表情です。

少々汚い物言いではありますが、
憎たらしい顔、と言ってしまいましょう。

憎たらしい顔は、まるで私をせせら笑うかのように、
眉を上げ、鼻を鳴らし、唇を歪め、
そして消えてしまいました。

ずいぶんと失礼な仕打ち。
私は「あんちくしょう」と呟きました。

これでも普段は礼儀正しいのです。
「あんちくしょう」は、私の精一杯の暴言のつもりでした。

しかし憎たらしい顔は、もう、消えています。
悔しさを向ける矛先を失った私は柄にもなく、サンドバッグを叩いてしまいました。

静かに佇むサンドバッグ。

全く揺れないのです。私は自らの非力さが本当に悲しくなり、

もう一回。

さらにもう一回。

合計3回もサンドバッグを叩きました。

これだけでも、私にとっては非常に激しい運動なのです。
体温が上がり、軽く動悸がします。
私は身体を落ち着けようと、そこに座り込みました。

私は身体を動かすこと自体、あまり慣れていないのです。

ずいぶんと非日常な体験でした。
私は日常を忘れていたのです。

具体的に言えば、明日の予定をすっかり忘れてしまったのです。

私は宙を仰ぎます。

誰か、

教えてください。私に。

明日の予定は、何だったのかを。

※出典:『あしたのジョー』
作詞:寺山修司 作曲:八木正生 歌:尾藤イサオ


巾着袋


ある日、母は子に渡した。

二センチくらいの布で出来た巾着袋。
中には、ビニールで密封された赤インクが入っている。

母は子に言った。

「もしもの事があった時のために、これを渡します」

子は素直に受け取った。用途は分からないまま。

子は育った。物事に疑問を持たないうちに渡された巾着袋。子は用途が分からないことについて疑問を持たずに育った。

ある時は鞄に入れ、ある時は紐をつけて首に下げ、子は肌身離さず巾着袋を持ち続けた。
子にとって巾着袋は「なんとなくお守りみたいなもの」という認識となり、外出時には財布より先に身につける癖もついた。

数年経ち、子は母に聞く。

あの袋は何なのか?どう使うのか?もしもの時とはどんな時なのか?

「どうって、いろんな事があるのよ」

母はそう言って涙ぐんだ。
子は、それ以上聞くことが出来なかった。

数十年経ち、母は死ぬ。

子は理由も分からぬまま、巾着袋を持ち続ける。

巾着袋の中には、ビニールで密封された赤インクが入っている。


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