歩くこと

 
 
 
歩かないことには、切っ掛けは起こらない。
だから歩くことにした。もう遅いかもしれないけれど。外はとても寒いけれど。
 
 
 


日が沈むまで

 
 
 
一瞬だけ、何でもうまくいくんじゃないかと思える瞬間があって、びっくりするくらいの儚さで消えた。
あとは一日、その余韻だけで過ごす。
日が沈むまで。
 
 
 


行為

 
 
 
つまりだ。自然な行為だったにせよ、意識的な行為だったにせよ、純真にせよ打算にせよ、思いの存在はこの場合において、実はさほど重要ではない。

そう言い切ってしまう僕はとても冷たいし、思いそのものを汲み取るべき優しさが、もう少しくらいはあってもいい。

けれど、その行為を知った今もなお、僕は自分のことばかりを考えていて、きっとこれからも変わらない。おそらく確かなのは、それまでにないくらいの深度で僕なんかのことを知る者が現れたということだ。

その行為を知った時、僕は自分の影が自発的に動いたような錯覚を感じた。同時に、恥ずべき自分の等身大を、自分でも信じられないくらい、自然に受け入れた。
 
 
 


定食屋で

 
 
 
定食屋でボーッとご飯を食べている間に、流れていたニュースは「死亡」という単語を十回は言った。

「消してください。飯がまずくなる」

とは言わない。黙って食べる。
とてもおいしい。ニュースは怖い。
どこかで感覚の接続部がイカれている。
 
 
 


喉仏

 
 
 
かつて可憐だったであろう女性の雑味混じりの声には緊張感が無く、そのかわりに、声帯の奥底から妙な可愛げが発酵食品のように醸されている。
いくら取り澄ましていても、直立気をつけの声帯では、決してその可愛げに届くことはない。

背後で突然聞こえた、耳を疑うド迫力の咳払い。動物の声だ。補食者の吼える声には、か弱い生き物を停止させる力がある。
振り向いた先にいたのはやはりかつて可憐だった女性で、緩急自在の喉仏にただただ感服するばかり。
仕方なく手を合わせ、頭を垂れる。
 
 
 


感謝

 
 
 
何のあてもないまま、電車に乗る。
寒さのせいで、感覚は鈍りきっている。
窓の外は真っ暗。暖房とアナウンス。
それでも向かう。誰も待っていないのに。
それでも、どうしても、皮膚に沁みさせなくてはならない。感謝が必要なのだ。
 
 
 


ビニール袋

 
 
 
オハナシからオハナシへ。河原の石を渡るように自分の時間を紡いでゆく。
時折視界に入るビニール袋のことは気にしないように。

あの中には何も入っていない。当然知ってる。あのビニール袋は僕のものだ。

オハナシからオハナシへ。
視界の隅。いくら風が吹いてもビニール袋はそこから動かない。決して視界から消えてくれない。
 
 
 


儚げ

 
 
 
細い電信柱にピラピラしたビニール紐が結わえ付けられていて、風もないのに揺れている。
どうして、あれは揺れているのか。
通りがかりに見たそれはあまりにも頼りなく儚げで、数秒間頭の中を通過してから、すぐにどこかへ消えてしまった。
 
 
 


清潔な冗談

 
 
 
その冗談は、シミや汚れが一切無い、とても清潔なものだった。

笑い声の向こうに潜む憐憫が見える。
笑う者の優越。その根拠になるのは自らの皮膚、その表と裏にあるシミや汚れの存在だった。

その清潔な冗談はいつまでも、暖かく受け入れられ続ける。
大して面白くない。それがどうした。
皆、本能に近いところで、その清潔な冗談を保護しようとする。
やがてその冗談にシミが付き、老ねた匂いを放つ時、笑い声たちはため息をついてから改めてもう一度笑い、それから、次の清潔な冗談を求めて歩き始める。

歩く集団の中には、かつての清潔な冗談の主もまざっている。
 
 
 


モニターと靴紐

 
 
 
その目で見ているのはモニターだ。
今見るべきは足下の靴。そのほどけた紐だ。きっとそれに気付くのは数年後だろう。

そんなことを思う。モニターを見ながら思う。足下の靴紐はやはりほどけている。
 
 
 


すり減らす

 
 
 
磁気テープは時間と共にゆっくりとすり減ってゆき、光の円盤へと姿を変えた。

光の円盤は硬く、今度は聴く側がすり減らす番だ。

そう言われ、仕方なく、鼓膜を差し出した。
 
 
 


肌色の人

 
 
 
自由で、明るくて、爽やかな区域。
僕らがそこを歩くときは、いつも雨が降っている。

その区域には、人がたくさんいる。けれど、だれも出身地を教えてくれない。
赤かったり青かったり黄色かったりする人たちの中に、肌色の人がぽつぽつと見える。肌色の人たちはみんな小さくケイレンしていた。

肌色の人たちはみんな共通した雰囲気を持っていて、自由でもなければ、束縛されてもおらず、唯一、曖昧であることだけが、確かなことであるように見えた。
 
 
 


本当の本当

 
 
 
昨夜のピカピカな約束が、たった一晩で重油みたいな色になった。
なんにもしていないのに。ただ寝てただけだけなのに。

窓の隙間から排気ガスの混じった空気が入ってきて、耳の穴に潜り込む。それから思い出す。
「ホント、本当の、本当に、本当だから」
昨夜、たくさん言った。百回は言った。喉が涸れて水飲んで、それからまた百回は言った。
何について言ったのかは、もちろん忘れてしまったけれど。
 
 
 


ソーイング

 
 
 
膜が溶けて、トロトロと言葉が垂れ始める。それは決して言いたかった言葉なんかじゃなくて、だらしのない、言っても言わなくても大差のない、どちらかと言えば要らない言葉たちだった。

それらを使って、編み物を始める。

誰も救わない言葉たちは、寄り集まってもやはり、誰も救えない、頼りない、ただの固まりだった。それでもいいや。嫌になったらまたお湯をかけて溶かしちゃえばいいんだし。
自分の体温。馴れすぎた匂い。無職の惰性で、編み物はどこまでも続く。
 
 
 


祭り囃子

 
 
 
毎日がお祭りみたいな生活を夢想して、それから、今がお祭りの真っ最中だったと気付く。
明日も、明後日もお祭りが続く。終わりの日時は知らされていない。

知らない間にため息をついていた。

はっとして周りを見渡し、旨をなで下ろす。たぶん大丈夫。誰も気付いていない。

さて、早く輪に入らなくては。
忘れちゃいけないのは笑顔。頬を吊り上げて、目を、出来るだけ大きく。笑え。誰にも気付かれてはいけない。
 
 
 


真空

 
 
  
スーツを着て、男性数人で喫茶店に入り、ある人は足を広げ、ある人は足を組む。
だいたい仕事の話をしている。大柄ですごく格好いい。若くはなさそうなのに、肺活量がありそうで、みんな佇まいがパリッとしている。

一瞬、会話が止まった。真空の中、煙草の煙が揺れて、お冷やの氷が音を立てる。

また、すぐに会話は始まった。
たしかに見えた。会話が無い真空の中で、あの人たちは同時に、わずかに、何かに怯えていたのだ。
 
 
 


それは秘密

 
 
 
喜ばせたいのは、喜びかたを知らないからで。

目の前で話している人が、薄目で僕の後ろ側を見ている。何度尋ねても、何を見ていたのか教えてくれない。
 
 
 


攪拌機

 
 
 
よくわかんなくなりたくない。
手を付けたらそうなっちゃうのは分かり切っている。放っとけばいいのに。

今のまま。20パーセントくらいのボカシがかけられたくらいの方が、まだよくわかるのに。

それでもやっちゃうんだろうな。ハッキリさせようとして、意味わかんないまんま、本当にわからなくなるまで、かき回しちゃうんだろうな。

がむしゃらに、入念に、まんべんなく。棄てたくなるまで。
 
 
 


行方不明

 
 
 
舌足らずなまま、ゆっくりと物言いをする。
遊んでる右目で見える景色はフラフラと揺れていて、ひとつめの文節が終わる頃には、何が言いたかったのかすっかり忘れてしまった。
 
 
 


 
 
 
混濁から戻ってくる時は、だいたい雨上がりの水たまりの中にいる。早く水面まで昇らないと。
動きには気をつかう。両手両足をていねいに動かさないと、底に溜まっていた澱が浮き上がってしまうのだ。
毎回失敗する。混濁の底にある澱は水中に舞い上がり、僕はそれを全身の皮膚に張り付けながら、複雑な気分で水面に顔を出す。そしてだいたい遅刻する。
 
 
 


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